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「察する」のは、誰のため?

こんにちは、桝田です。

自分の滅私奉公の癖に気づいてから、生活のいたるところで残念な自分の考え方の癖がいろいろ見えてきて笑えるこの頃……。

「人の好みや人の期待を察して動く」ということをあまりにもあたりまえに自分のコミュニケーションや行動の基準においてきたなぁ、とこれまでを振り返っています。

たとえば買い物に行って。

1. 自分の行動:

夫の好きな食べ物を買った!

2. 自分の気持ち:

喜んでくれるかなー。喜んでくれるといいなー。

3. 相手の行動:

お礼は言われたものの、あまりうれしそうではない様子。(結構よくあります 笑)

4. 自分の反応:

もっと喜んでくれてもいいのにとがっかりする。
なぜ感謝しないんだ!と怒る

これ、2の時点まではいいのだと思うのです。
3の、「自分の期待と異なる相手の行動」を見ると、すぐに4、怒り出す、がっかりする・・・という残念な自分。

夫は私にとって自分に近い人なので、余計に安心して怒ったり不機嫌になったりしているようです。

いやー、夫にすれば 大きなお世話 だろうなーーー!!!!!

たまたま食べる気分でなかった、という場合もあるだろうし、そもそも別に夫が私に買ってきてくれと頼んだわけではない。
夫からすれば、自分がそこまでうれしいと思わないことでも、妻が妻の勝手にしたことにもかかわらず、自分が嘘でも喜ばないとせまい家の中で妻が不機嫌になる、という理不尽極まりない事態……
(幸い?夫は私に気を遣って喜ぶフリをするような人ではないので、実際どう思ってるのかダイレクトに私にもわかるのですが。)

あー、残念だーーー。

1.2.は、よいのだと思うのです。

人の好みを察して、「私が」買いたいと思って買った。

ただ、3で「相手が」どう受けとるか、何を感じるかは、本来、相手のまったく自由であるはず。

4で私が怒り出すのは、「3で相手は喜ぶ、感謝するべき」と、自分の正しさから相手をコントロールしたいと思っているから。

ほんとどこでもやってきたし、やってるなぁ。

怒り出すならば、察するのは相手のためじゃなかったということ。
察することで「相手の役に立つ自分」であるため、なのです。きっと。

本当に相手のためであれば、相手と話しながら、相手の必要なものほしいものをその時一緒に考えればよくて、怒ることなんてなにもない。

「察することができる」のは、間違いなく私にある力のひとつ。
その力を、いつでも使ってもいいし使わなくてもいい。

相手のため?

私のため?

それを自覚して動くかどうか、なんだろうなぁ。

 >>>続きを、書いてみました。

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