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「表に立つ」も「表に立たない」も、ない。大切なのは……。

こんにちは、桝田です。

カイ・ディヴィス・リン先生の、クリーン・ランゲージ個人セッションを受けました。

何をテーマに、と直前まで決められずにいたのですが、話し出したらやはり、8月のクリーン・リトリートから取り組んでいる、「自分を表現する」ということについて……。

What would you like to have happen? (何が起こってほしいですか)
という最初の問いには、もう少し広い答えをしたはずだけれど。

And where do you have …… ? (それは、どこにありますか)
という、ふたつめの問いからは、意識は「左肩」へと向かいました(詳しくはこちらの記事をどうぞ)。
どうしたって、今私の関心はそこへいくのだなぁとぼんやり思いながら。

セッションを終えてわかったのは、私が左手から差し出すのは、握手だということ。
私の感じてきた・感じている痛みと希望、切り離すことのできないそのふたつから、差し出す握手。
それをとる自由も、とらない自由も、完全に相手にある。

私にできる努力は、どれだけ純粋な、心からの握手を、相手がとりやすいように、丁寧に、差し出すことができるか? だけ。

そんなかかわり方が、私を含むすべての今生きているものへの、私の敬意であり、仕えることそのもの。

そこから見ると、「表に立つ」も「表に立たない」も、大事ではなくて……
相手の前に相手がわかるように立って、相手のとることのできる握手を差し出せているのかどうか?
もし裏方の役割であれば、表に立つ人と確かに握手し、その先にいる人にまで本当にとることのできる形で差し出されているのかが大切。
私が直接差し出すのであれば、相手のとれる形で差し出すということに力を尽くすだけ。

そしてもしその手を一度でもとってもらえたなら、感謝しかないのです。
手が離れたとしても、一度握手を交わしたなら、ゆるやかに形を変えてもつながり続けていくから。

そして私(や、私たち)の差し出した手が、その時にはとられなかったとして、私もつながるなにかと、もうつながっているかもしれないし、この先いつかつながるのかもしれない。

私がつなげられたか、つなげられなかったか、ではなくて。(こう書くとほんとおこがましいな)
私は、差し出せたのか、差し出せなかったのか? 振り返ってわかることを、次では活かしたらいい。

カイ先生、通訳・オーガナイズくださった泉さん、カイ先生を日本に招くために力を尽くしてくださったみなさまに、感謝を。
この時間をくれた夫にも、ありがとう。


★クリーン・ランゲージのクライアント体験などを次のリンクにまとめています。

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